スペイン日記    
   
 旅立ち


 かねてより一度はスペインに行き、歴史のある建物や、美しい風景をスケッチしてみたいなと考えてはいたのだが、なかなかそのきっかけがなく今日まで生きてきた。今年こそはなんとかしないとその内に年ばかりくってしまって、行く気力もなくなってしまう。ということでいよいよ決行することにした。さっそく旅行代理店に行きスペインまでの往復航空券とホテルの予約を依頼した。格安のツアーという手もあったのだが、ツアーになると行き先からその日の行動まで制限されてしまうので、とてもじゃなくスケッチなどというのんびりした時間はとれそうもない。だから今回はスペインのかっての首都であったトレド(天空の城ラピュタのモデルになった街)に一週間滞在することに決めた。「ひょっとして8月の11日日食も観測できるぞ。」などと一人で喜んでいた。

 いよいよ8月4日、朝4時30分頃に目覚める。といっても、この日は興奮してあまり眠れなかったのだが。とにかく時間には余裕があったのでシャワーを浴びて身体をシャキッとさせた。軽く朝食をとり、阪神尼崎駅まで出た。ここからは関西空港までの直行バスが出ている。出発時間は6時30分。余裕をもって6時に到着した。僕が一番早く到着したみたいだった。空港までの切符を買って待っていると、20歳前後の男の子と女の子の兄弟がおじいさんとお母さんに連れられてバス停までやってきた。お母さんらしき人が女の子に何か話しかけている。女の子は「私は読むことができない。」と、お母さんが指を指す看板の言葉について答えていた。そのやりとりを見てもう一度二人の姿をよく見てみると、ほんの少し日本人と違っていることに気付いた。きっとどこかの国の日系二世か何かだろう。と、思った。「スペインから来ていれば何とか友達になってスペインを案内してほしいのだが。」などと気のいいことを考えながらバスに乗った。

 海外旅行が初めてなら、もちろん関西空港に来たのも初めてだったので何が何やらさっぱり分からなかったが、なんとかセキュリティチェック(実は竹トンボセットをトランクに入れていたので内心びくびくしていた。このセットには切り出しナイフが3本も入っていたのだしかもハイジャックが起きてまだ間がなかったので税関はかなりピリピリしていた。)までたどりついた。しかしトランクの中を拝見させて下さいといわれ内心ドキドキしてどうしょうかと思ったが訳の分らない話になってなんとか無事にパスした。まだ時間があったので喫茶店でコーヒーを飲んでサンドイッチを食べた。

 いよいよウイングシャトルに乗ってルフトハンザドイツ航空LH741に乗ることになった。今までに飛行機に乗ったのは、伊丹から仙台までと、九州の指宿(いぶすき)に行った時の二回だけで、今回のように12時間もの長い間乗るのは初めてだった。どうか墜落しませんようにと心の中でひそかに祈っていた。 飛行機の中は思っていたよりもせまかった。自分の座席を見つけて座ろうとしたらすでに太った女の人が座っていたので首をかしげながらそれでも自分が間違えたのかもしれないと思いつつ三つ並んでいる座席の通路側に座った。しばらくして何やら騒々しい声が近づいてきた。しかも英語である。どうやら自分のチケットを見せてほしいといっている。見せると、しきりに座席を変わってくれとくりかえしいっている。どうやら窓の外の景色をカメラでとりたいのだそうだ。僕はいいのだが窓側にすわっている人は僕ではないのでどうすることもできない。しかたがないので窓側にすわっている女の人に話をして、座席をかわってもらうことにした。もともとはこの座席は僕の座席である。ちゃっかり窓側に座った女性はスイス人で大阪の友達に会いに来ていたのだそうだ。偶然にもその友達の名前が「同じ名前」だったので二人で笑いながらしばらく話に夢中になった。といっても片言の英語なのであまり内容のある話にはならなかったが、それでもお互いに住所を教え合いいつの日かスイスに行く時には、きっと会いに行く約束をした。しばらくしてそのスイス人(マリアン)が座席をかわってくれたので僕は窓の側に座ることになった。高度一万メートルから見る外の景色はとっても雄大で、改めて地球の大きさを考えさせられた。と同時に環境の問題についても一瞬自分の頭をよぎった。今から百年前の景色はもっと美しかったろうに。

 飛行機の中のテレビ(エコノミーの座席なので座席にはテレビがない)では今飛んでいる場所が地図で表され、それと同時に高度・気温・スピードなども表示されるのでとても便利である。(途中で映画にかわったが)

 飛び立ってしばらくすると機内食が配られた。料理はレトルトだが、なかなかおいしくて(うなぎのかばやき)嬉しかった。ただこの座席の狭いのには閉口してしまった。外国の身体の大きな人にとってはちょっときびしいのではないのかな。などとよけいな心配までしてしまう始末で、そんなことでも考えないと、とてもじゃないけれど我慢できなかった。

 現在では日本からスペインまでの直行便は成田からしか飛んでおらず、関西国際空港からの便はどこかの国を経由しなければスペインには入れない。僕の乗った飛行機はドイツのフランクフルト経由であった。だから、フランクフルトで一度降りてスペイン行きに乗りかえなければならない。飛行機は予定より30分近く早くフランクフルトに到着した。関西国際空港を飛び立ったのが朝の9時40分で、ほとんど太陽の動きに合わせて飛んでいくのでフランクフルトに到着したのは現地時間で午後2時5分(予定では35分)だが、日本時間では午後10時頃である。

 フランクフルトに到着してものんびりとはしていられない。次の便まで2時間しか時間がない。すぐに税関をさがして、今度はスペイン行きのターミナルまで移動した。ここまでくるとさすがに日本人の姿は一人も見当たらない。徐々に不安感がつのりはじめた。と、その時。なんと目の前に現れたのが例の二人連れの兄弟だった。「尼崎から一緒でしたね。」「え、そうですか。僕は知りませんでした。」「どちらまで行かれるんですか。」「スペインです。」「えー、スペイン。実は僕もスペインに行くのです。」ということで、よくよく話を聞けばお父さんがスペイン人でお母さんが日本人とのこと。お父さんが若い頃に一か月ほど日本に来ていた時に今のお母さんと知り合って結婚されたそうである。そして彼の名前がミゲルで妹はサラという名前であるということも教えてくれた。そんな話をしていると飛行機の搭乗時間になったので、続きはスペインのバラハス空港に到着してからということで別れた。

 フランクフルトで乗りかえた飛行機は今までの飛行機とはちがって一回り小さかった。隣に座った人は30歳くらいのスペイン男性で、独特の体臭を辺りにまきちらしていた。今度ばかりは言葉が通じないので身振り手振りで話し合った。


マドリッドにて   

  
 2時間が過ぎてスペインのバラハス空港に到着した。時間は7時。手荷物ターンテーブルまで行きミゲルとサラと落ち合った。僕の荷物はすぐに出てきたのだが、ミゲルのスーツケースがいつまで待っても出てこない。結局スーツケースは行方不明で後日連絡を受けるということでこの場を後にした。
   
 飛行場にはミゲルのお父さんとお兄さんが迎えに来ていた。幸運なことに僕をマドリッドのホテルまで送ってくれるとのことである。時計は午後の8時をすぎていたが外はまだ明るく(この時はまだスペインの夕暮れが午後の10時頃ということを知らなかった)日本の午後4時くらいの明るさだった。時差ボケで頭がボーッとして、飛行機の中での機内食を食べたばかりでお腹もすいていない。到着したホテルではシャワーを使ってすぐ横になった。ホテルの部屋が表通りに面しているせいか、窓の外からは車の走る音と人の雑踏がいつまでもとぎれることなく朝方まで続いていたように思う。

 翌朝、自分の時計では朝の7時すぎだった。朝食は8時からということを聞いていたので、テレビをつけてのんびりしていると、テレビの画面に写っている時間はすでに8時をまわっていた。不思議に思いながらすぐに着替えて朝食をとりにいく。この時間の差はスペインのサマータイムの差であった。サマータイムというのは、夏の間だけその国の時間をいくらか早く進ませる制度である。このことを忘れていたせいだった。
 朝のマドリッドは、日本でいえば東京や大阪など大きな街の中心部の雰囲気によく似ていた。街全体がドロンとしていて、まだ昼間の活気はない。ホテルのチェックアウトまでまだ時間があったのでさっそくスケッチブックを持って出かけた。このマドリッドは、真新しいビルや整備された道路と、古く歴史のある建物とが混在していて、なかなか自分の思うような絵になる場所を見つけることができない。ひとしきり歩き回って、結局自分が泊まったホテルの前の公園のベンチが適当な場所となった。

 描き終わってからまだしばらく街をブラブラ探検した。道行く人の波はすでに一日の始まりをつげていて、その中をスケッチブックの入った薄汚い手提げカバンを持ってあるいている。なぜかすごくぜいたくな時間をすごしている自分がとても嬉しかった。

 気がつくと王宮だった。白い石の宮殿だ。しかもばかでかい。マドリッドがマヘリットとよばれていたイスラム時代、9世紀に建設された回教徒の城塞アルムダイナがあったところだ。11世紀の末にキリスト教徒に街が奪回されてからはカスティーリャ王国の宮廷がおかれ、その後都が移されてからは歴代の国王の居城となった。しかし、1734年に火災があり焼け落ちている。その後第一代の国王フェリベ5世が今のフランス・イタリア風の王宮を作った。

 王宮の公園を歩いた。空気を含め、足下の土も乾燥していて、プラタナスの木陰は真夏だというのにひんやりと、とても気持ちがいい。時計はすでに10時を回っていた。ホテルのチェックアウトの時間は正午なので一旦ホテルにもどった。

 今日はいよいよスペインでの目的地トレドにむかう日だ。ホテルでチェックアウトを済ませ、タクシーでバスターミナルに向かった。バスターミナルは阪神甲子園のバスターミナルの10倍ぐらいの大きさで、しかもバスターミナル全体が巨大なビルの中に入っていた。それぞれ行き先別にカウンターが別れていてトレド行きの切符売り場は一番端にあった。トレドまでは585pst(ペセタ)(日本円で約500円ほど)だった。切符には出発時間と座席の番号が印刷してある。出発時間と座席の番号はわかったが、肝心のバス乗り場が分からない。インフォメーションで乗り場を確認したがやはり分からない。ウロウロしていると親切そうなおじさんがいたので尋ねる事にしたが、そのおじさんも結局わからなかった。でも、おじさんは、わざわざバスの運転手に聞いてくれたので場所が分かった。トレド行きのバスは2連結なので外のバスとは違って乗り場が離れた場所にあったのだ。おじさんにお礼をいって別れた。

 トレド行きのバスはすでに出発の準備をしていた。トランクに大きなスーツケースを乗せて、運転手に切符を手渡した。運転手は、その切符を手に持つといきなり半分までやぶった。そして返してくれた。日本では考えられない出来事だった。バスの乗客が案外少なかったので座席順とは関係ない場所に座る事にした。いよいよバスの出発だ。出発して15分ほどでもうマドリッドの郊外に出た。それまでコンクリートのビルや石造りの建物などが所狭しと建っていたのに、あたりは背の低い灌木(オリーブ)と赤茶けた土の世界だった。さしずめ日本ならば姫路のサファリパーク(行った事ないけど)みたいな景色が延々と続いた。それでも何分かおきに小さな町が現れ、その都度バスも幾人かの人を乗せては下ろすをくりかえした。


トレドにて



 バスに乗って1時間30分。やっとトレドに到着した。 

 トレドのバスターミナルはマドリッドの半分くらいの大きさだ。半地下式になっていてエスカレーターで一階に行くと、切符売り場のカウンターが並んでいる。スーツケースがなければバスに乗ってトレドの中心部まで行くのだがここはタクシーに乗ることにした。スペインではタクシーのドアは自動で開かないので、自分で開けなければならない。日本と違ってちょっと戸惑う。運転手に行き先を告げてシートに腰を沈めた。

 トレドは町の東・南・西側の三方をタホ川という武庫川の5倍くらいの水量の川に囲まれている。そして、トレドの街の対岸はといえば、道路から川までがかなり急な崖になっている。この立地条件からローマ時代には城塞都市として、そして、6世紀には西ゴート王国の首都になった。その後、1085年にアルフォンソ6世によって再征服されるまでは、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒がこの町で共存していた。また、1561年にマドリッドに遷都されるまでは、スペインの首都として政治・経済の中心地でもあった。

 タクシーに乗って5分ばかり走ると、道は急な坂道となり、車一台がやっと通れるほどの狭さになった。と、思ったらもう、これから一週間宿泊するホテル「カルロス5世」と書いてある看板が見える場所に到着していた。ホテルの前までは車が入れないので、ここで降りるしかない。タクシーの運転手に運賃とチップを手渡し、タクシーを降りた。さすがに足下は石畳である。何千・何万人もの人々に頭を踏まれ、その表面はツルツル、ピカピカに光輝いている。机の上に一つ飾りたいくらいだ。しかし、歩くのにも、スーツケースを転がすのにも一苦労する。10メートルばかり歩くと、こじんまりとしたマドリッドのホテルとほぼ同じくらいの大きさのホテルについた。入り口はガラス張りになっていて中からは、誰が訪ねてきても判る仕組みになっている。入り口を入って左手には受付カウンターがあり、感じの良さそうな若いボーイと年配のコンシェルジュらしき人が応対してくれた。そう広くない玄関ロビーではあるが、マドリッドにはなかった立派な家具やソファーが人目をひいている。

 受付を済ませスーツケースをころがしながらエレベーターまで移動した。(日本のホテルならボー
イさんが荷物を持ってくれるのに・・・・などと思いながら。)

マドリッドのホテルでは、エレベーターの行き先ボタンを押して、いくら待ってもエレベーターの扉が開かなくて、結局自動で開かないことに気が付くのにかなり時間がかかったという恥ずかしい出来事があったものだから、このホテルでは、同じ失敗をくりかえさないつもりでエレベーターを待っていたが、動作が遅く、日本の30年前のエレベーターという感じで扉が開いた。部屋は4階だ。

 スペインでは1階は0の表示なので3階で降りなければならない。でも、このホテルは斜面に建っているものだから1階はレストランになっていて、受付カウンターは2階ということになる。この時点ではまだ0の表示が1階だということに気が付かないでいた。

 4階についたものの廊下は真っ暗で何も見えない。しばらく手探りであるいているとホテルのメイドさんが親切に電気をつけてくれた。これも後で気が付いたのだが節電のために廊下のスイッチを押すとほんのしばらくして電気が消える仕組みになっているようだ。

 かなりウロウロしながら自分の部屋414号室にたどりついた。ルームキーはカード式になっていてドアノブの穴にカードを差し込むとロックが解除される。そして部屋に入るとこんどはそのカードを部屋の中にあるカードボックス?に差し込まなければ部屋の電気はつかない。部屋はシングルベッドで8畳くらい。かなりゆったりしている。バスルームはシャワーだけでなく、ちゃんとバスタブもついている。日本人の僕としてはとてもうれしかった。

 そんなことより一番感動したのが部屋の窓からの眺めだ。窓をあけるとトレドのほぼ西半分が視界に入る。中でもカテドラルには圧倒される。よくあの高さまで石を積み上げて作ったものだ。1227年に着工して、完成したのが1493年。実に266年もかかっている。日本では鎌倉時代から室町時代にかけてだ。この当時の日本人がこの街を訪れていたら、きっと今の日本はもっと違ったものになっていただろう。そんなことを考えながらしばらく眺めていた。


昼間にあんなにたくさん食べたものだから、このドーナツ一つで夜は十分だった。トレドでの初めての夜はマドリッドに比べると嘘のように静かで落ち着いた夜だった。

 翌日、8時きっかりにレストランに行った。レストランでは、すでに何組かの家族や、旅行者が朝食をとっていた。バイキング形式で、自分で好きに食べたいものを取ればよいらしい。ずらりと並んだ食べ物や食器類一式の紹介をしますと。向かって右端から、山積みになったフォーク・スプーン・ナイフ。色々な大きさの食器の山。飲み物のカップ各種。砂糖・ジャム・バター類。保温器に入ったコーヒー・ミルク・お湯。生ハムの山。直径10センチはある薄切りにしたサラミ。クロワッサン・フランスパンに似た固いパンの山。紙パックに入ったヨーグルト(確か4種類のヨーグルトがあったと思う。)果物(もも・キウイ・プルーン・メロン・グレープフルーツ・オレンジ・リンゴ)。トマト。ミネラルウオーター。などが10メートルぐらいの場所にずらりと並んでいる。ちょっと圧倒されたが、コーヒー・パン・ハム・サラミ・もも・リンゴを取り、のんびりと食べた。もももリンゴも小ぶりながら、とても甘みがあって、おいしかった。食べている途中で、ボーイさんが部屋の番号を聞いてきたので、「クアトロ・ウノ・クアトロ」(414)と答えたら「フォー・ワン・フォー」と言い返された。

 お腹いっぱいの朝食を食べて、部屋でくつろいでいると電話がなった。受話器を取ると、サラの声で、ミゲルの車でこちらに向かっているが、トレドに到着するのが11時頃になるという。こちらも、今朝食を取って部屋でくつろいでいるから、あせらずにゆっくり来るように答えて、受話器を置いた。ミゲル達が来るまでに時間があったので、窓から見えるばかでかいカテドラルをスケッチすることにした。
 
 カテドラルまでは、目測で300メートルぐらい離れている。よく見るとハトがたくさん飛んでいる。その群の中に、ハトではない黒い色をした鳥を数羽目にした。
 いくら目をこらして見てもどんな鳥かよくわからないが、姿はどう見てもカラスである。しかし、カラス独特の鳴き声が聞こえてこない。聞こえるのは「ピーョ・ピーョ」というとてもかわいい鳴き声だけだ。そこで、ぼくはスペインのカラスは「ピーョ・ピーョ」と鳴くということに一人で勝手に決めた。(まちがっていたらごめんなさい。)

 11時頃に部屋の電話が鳴った。ホテルのロビーにミゲルたちが着いたという知らせだった。すぐにロビーに下りていった。そこにはミゲルとサラのほかにミゲルの友達ベルギー人のヒェールがいた。少しだけロビーで話をしてからトレドの街をみんなで歩くことにした。

   はじめにトレドに着いて初めてスケッチをしたアルカサルに行った。このアルカサルの中には戦争で使われたナイフやサーベルをはじめとして色々な武器が展示してある。地下にはフランコ軍の家族がたてこもった跡があり、二階には爆撃後の大佐の指令室が内戦の跡そのままに再現されていた。

 スペインでは画家のピカソが有名だが16世紀から19世紀にかけての有名な3人の画家といえばベラスケス、ゴヤ、エル・グレコだ。

 なかでもグレコは、ギリシァのクレタ島に生まれていながらその生涯をここトレドで過ごした画家である。今回のスペイン旅行の楽しみの一つは、グレコの住んでいた家を訪ねることでもあった。                   
 アルカサルを見学した後昼食をとることになった。ここはやはり地元のミゲルの出番だ。トレドの街の中には観光客目当てのレストランやバル(レストランのように気取らない食堂)がいたるところにある。ミゲルと私たち一行はそれらの店一軒ごとをたずね歩き、店先に掲げてあるメニューと値段を見て歩いた。そんなことをしながら何軒かまわった後、やっと適当なレストランに行き当たった。その店はなかなか落ち着いた雰囲気の店であったが、中に入ると人で一杯だった。あきらめて出ようとした時。お店のウエイターが呼び止めてくれた。そして、階段をゆびさし上がるようにと言ってくれた。なんとこの店には二階があったのだ。二階は4人掛けくらいのテーブルが6セットほど壁にはベラスケスの絵画(たぶん模写)が数点かけられていて、しかも、お客は僕たちだけであった。ウエイターがメニューを持ってきてくれたのでさっそく料理を注文する。4人いるのでそれぞれがバラバラに注文してお互いに分け合って食べようということに話がまとまった。ミゲルはウズラ。サラはガスパッチョ(トマトをベースにした冷たいスープ)とお米を牛乳で炊いたアロス・コン・レチェ。ヒェールはバェリヤ。そして僕はパスタ料理を頼んだ。料理が出てくる間に朝に見たカラスのような鳥についてミゲルに尋ねた。「スペインではカラスはどう鳴くの。」「知らない。」「ベルギーでは。」「ベルギーではカーカー。」ということで、やはりスペインのカラスは「ピーョ、ピーョ。」と鳴くということにみんなで勝手に決めた。(だれか知っている人は教えて下さい。)

 食事の後は、いよいよ、グレコの住んでいた家まで行くことになった。トレドの道は細く、小さな車一台がやっと通れるくらいで、おまけに迷路のように入り組んでいる。グレコの家を探すのに一苦労した。でも、おかげで翌日からの街のスケッチで道に迷わずにすみそうだ。
 
 グレコの家についた僕たちはのんびりとグレコの絵を鑑賞した。どの絵も写真で見るよりも実物の方がきめが荒くてゴツゴツした感じで迫力があり、筆のタッチもはっきりと見てとれる。400年の時を経て、しかも、こんなに乱暴な描き方でも離れて見ればなんと艶やかな感じになるのかが不思議で、とても興味深かった。
 
 ミゲル達と別れた後コンビニに毛の生えたようなスーパーがあるのをホテルの近くで見つけた。古い民家か倉庫を改造してある。入り口と出口があるだけで、ネオンサインどころか看板も見当たらない。僕自身も、どうやってこの店を見つけたのか思い出せない。偶然にフラフラと迷い込んだ感じだった。入り口を入ってすぐに精肉店、これは日本とほとんど変わらない。そして体育館の半分ほどのスペースには、ありとあらゆる雑貨や食べ物、もちろん野菜や果物も並べてある。日本と違うのは、人の通るスペースが広く取ってあって、移動にとても便利であることと、買い物をしている人の数が少ないことである。今日も昼の食事でお腹が空かないので、ちっちゃなパンとかわいい絵の付いたパックのヨーグルトを買って帰った。

 7日は、朝食をとったあとすぐにタホ川に直行した。しかし、工事中で門全体にシートがかけられている太陽の門にさしかかったとき、石積みの城壁に心を惹かれてしまった。この門はトレドの街の北側にあって、敵の侵入を防ぐために作られた高さが10メートルほどの石積みの壁につけられた門である。この日は朝から日差しが強かったので、バス停の近くにあった建物の陰からスケッチを試みた。一時間ばかりしたところで、背後に人の気配を感じた。

 背後に感じた気配は、年配のおじいさんだった。僕の描いている絵を見て何やら話かけてきた。「ノ アブロ エスパニオール」と答えて、この旅のために買った小さなスペイン会話の本をそのおじいさんに手渡した。すると、そのおじいさんはその本の中の一文を指さしてくれた。そくには今描いている絵をほめる言葉が書いてあったので、うれしかったけど、ちょっと照れくさかった。描き終わったのが11時頃だったので場所を変えることにした。

 昼を過ぎた頃から急に風が強くなってきた。日本だと少々風がふいたとしても砂ぼこりで困るようなことはまれでしかない。ここの風はちょっと半端じゃなかった。とにかく目をあけておれない。しかも、ちいさな砂粒が頬にピシピシって感じ。2枚目を描き始めていた絵も途中であきらめた。
 荷物を持って、風を避けるようにトレドの西のはずれまで歩き、サン・マルティン橋までたどりついた。目の前に感じのよいレストランが現れた時、時計の針は2時をさしていた。入ることにした。

 後で分かったことなのだけれど、このレストランはかなり有名だったらしい。なぜなら、書店で買ったスペインの旅行ガイドの本にこのレストランのことが紹介してあったからだ。
 昼食を済ませ、レストランを出ると、目の前に小さなお土産屋さんがあった。中をのぞくとおじさんが一人で象嵌(ぞうがん)細工の仕事をしていた。品物の値段も他の店より安かったので、いくつかおみやげを買うことにした。

 トレドのお土産屋には必ずナイフやサーベルがおいてあり、店によってはどういうわけか日本刀までが店先にならんでいる。でも、この店には他の店と違ってそのようなナイフ類は置いていなかった。僕が絵を描くことを知ったお店の主人は、日本人からもらったというトレドを描いたきれいな絵を見せてくれた。帰り際には名刺もくれて、今度また来たときには寄ってくれと言ったので、笑って別れた。

 店を出ると、急に雲ゆきが怪しくなり、ポツポツと雨がふりはじめた。そこで一旦ホテルに帰ることにした。ホテルでは、窓から見た二枚目の景色をスケッチした。


プラド美術館でのこと



 8日。楽しみなプラド美術館行きの日だ。8時に朝食を済ませると、ビデオカメラ、パスポートのコピー(スペインでは昨年からパスポートの盗難が多いためにパスポートはコピーの携帯でよくなった。)、お金(盗難防止のため、財布には入れずにポケットのあちらこちらにいれる。)ハンカチ、などを持ってバスターミナルに向かった。トレドに来た日にはタクシーを使ったが、今日はバスターミナルまで景色を見ながら散歩がてらに歩くことにした。ホテルを出てほんの少し歩くと道は下り坂となり、タベラ病院が視界に入ってきた。昨日はすごい風で絵を描くのに困ったタベラ病院、見る位置がかわっただけであるがこの景色もなかなか気に入った。チェックしておこう。

 バスターミナルまでは、太陽の門をくぐれば5分とかからない。キップ売り場で9時発のマドリッドまでの切符を買った。日曜日で、バスターミナルは人の姿がまばらだった。

 マドリッドの南バスターミナルへは、10時過ぎに到着した。外観がまるで美術館のような鉄道のアトーチャ駅を目標にゆっくり歩いて5分、そこからプラド美術館まではさらに15分くらいかかった。道路は広く、ゆったりとしたつくりになっていて、走っている車も少ない。街路樹はプラタナスか、にせアカシアの大木だ。日本の街路樹がここまでになるためにはあと100年ぐらいかかるかな。などと思いながら歩いた。特にプラド美術館周辺は緑が豊かで乾燥しているはずなのに空気が肺に心地好い。
 プラド美術館までの途中で急にオシッコがしたくなった。スペインでは公衆トイレが少なく、ほとんどバルで用を足す。マドリッドは、トレドと違って日本のマクドナルドかミスタードーナツのような外観がきれいなバルが多い。僕はそのような店の一軒に入っていって、トイレを借りた。
 
 11時くらいにとミゲルに約束していたのだが、プラド美術館に着いたのは11時に10分ほど早かった。場所は美術館の入り口付近にしていたので、日差しをさけてベンチに腰を下ろして待つことにした。すると、年の頃が六十歳を過ぎたようなおじさんが絵ハガキを売りに来た。しきりに片言の日本語でしゃべってくる。それだけ日本の観光客が多いのだろうと思っていると、やはり目の前を日本からのツアー客らしき一行が通り過ぎた。

 それにしても時計の針が11時をまわったのだけれど、ミゲル達の姿が見えない。スペイン人の遅刻は当たり前と聞いていたのだが、まさかミゲルまでが。いや、ひょっとして美術館の入り口がここだけではないのかも知れない。などと、よけいな考えが頭の中をよぎる。そうこうしている間に美術館の入り口にはズラリと人の列ができてしまった。これは困った。入るのに相当時間がかかりそうだ。そこで並んでミゲルを待つことにした。入り口まであと15〜6人になったときやっとミゲルの姿が現れた。やはり、美術館の入り口が三か所あって、その三か所目に僕を見つけたらしい。

 入り口では持ち物のチェックがある。ヒェールが折りたたみナイフを取り上げられた。(スペインではナイフの携行は禁止。)

 持ち物のチェックの後は、いよいよ美術館の中の探検だ。二時間くらい経った頃、いきなりミゲルが通りすがりの日本人に挨拶をした。この人は、トシさんといってミゲルが日本人学校に通っていた時の中学校の担任の先生だった。聞くところによるとプラド美術館には久し振りに来たらしい。今日はトシさんの友だちチャコさんも一緒だった。

 僕たち5人は、しばらく一緒に美術館の中を探検した。ヒェールがゴヤの「巨人」を見たいといってゴヤのスペースへ。僕は「マハ」に会えた喜びで感動。三時間あまりの探検の後ミゲル達と別れた。


トシさんたちとのこと






 美術館を出た後、僕たち三人はマドリッドの街をブラブラ歩いた。マヨール広場ではプラド美術館の作品に負けないような絵を描いている何人もの街頭絵描きをひやかし、王宮では、その近くに宿泊したオペラホテルを見つけて興奮し、シベレスの大きな像に驚いた。最後は、レティーロ公園。一歩公園の中に入ると日曜日の散策を楽しむたくさんの人の姿に驚いた。まるで大阪城公園のように、ライブをやっている人や(大阪城公園のライブしている人よりも平均年齢は上。)ローラブレードを楽し若者たちで熱気がムンムンしている。

 公園を出てしばらく歩くと、武神さんが以前一緒に生活していたという友達の家に案内してくれることになった。この家は、大学で哲学を教えているディアトリスさんという女性が現在一人で生活していて、今はバカンスで地中海方面行っているので留守だという。しかも、カギを預かっていて出入り自由らしい。

 デアトリスのマンションはマドリッドの丁度中心にある。日本のようにビルの中には何軒かのマンションがはいっている。マンションの入り口には、高さが3メートルは優にある頑丈な木製のドアがついていて、このドアを開けないことにはそれぞれのマンションの入り口にたどりつけない。ドアを開けると、松の木で作った階段が上に伸びている。マンションの外観は石造りであるが、中に入るとふんだんに木が使ってあるのはなかなか落ち着きがあって良いものだ。デアトリスの部屋は4階、ドアの鍵を開けて中に入った。もちろん土足のままである。部屋はきれいに片付いていて、リビングはさすが哲学者だけのことはある、床から天井まですべて壁面は作り付けの本棚になっていて、その棚には前後二列に本がぎっしり詰まっていた。持ち主が不在のマンションにそう長くいては失礼なので、早々に退散した。

 デアトリスが彼女の友達のメルセデスと一緒に帰ってくるのが12日、僕のスペイン最後の日だ。会えると良いのだが。そんなことを思って外に出ると、「もし良ければ僕たちのマンションに来て夕食を一緒にしませんか。まさか、このようなことになるとは思ってもいなかったから部屋は片付いていませんが。」とトシさんがいってくれた。これには僕自身感動してしまって、言葉が出なかった。突然美術館で知り合った、見ず知らずの日本人にこんなに親切にしてくれる二人が、まるで神様のように思えた。

 トシさん達のマンションまでは、地下鉄で行くことになった。スペインの地下鉄は日本の電車と同じように、はじめに切符を買って乗る。料金はべらぼうに安い。

 スペインの市バスと地下鉄は切符が同じで、どこまで乗っても料金は130ペセタ、10回券を買えば一枚あたり半額の値段になる。日本と違うところは改札口。自動改札機には違いないのだが、改札機からバーが出ていて、このバーを押すようにして中に入る。どこかの遊園地の入り口の感じだ。ここを通り電車に乗るのだが、電車のドアもタクシーのように自動では開かない。いちいちこちらが開けてやる。閉まるのは自動である。電車を降りて、改札を出る時には改札機に切符をいれる入れる必要はない。

 トシさんたちのマンションは、マドリッドの闘牛場の近くにあった。このあたりは非常に静かで車も少ない。ただし道路は、駐車した車で一杯だ。道路の一部には駐車してもよいことになっている。

 部屋に入ると、まるで日本の雰囲気がただよっていて、久し振りに日本のなつかしさがこみあげてきたが。泣かなかった。そんなことより今夜はカレーライスを食べさせてくれるらしい。トシさんが食事の準備をしていてくれる間、チャコさんと色々話をした。そして、チャコさんがなぜ今スペインにいるのかも話してくれた。話の中でギターのことが話題になったとたんに奥の部屋からガットギターを取り出してくれた。何でもこちらに来て買ったギターなのに、よくよく見ると日本製のギターだった。という話はなかなか興味深い。

 今の日本ではどんな歌がはやっていますか。と聞かれたけど、僕は 浜田省吾か 長渕 剛 専門なのでとっさには何も思いうかばなかった。でも、後で考えたらドリカム、SPEED、エレファント・カシマシ、スガシカオ、などあまり曲は知らないけれど色々あったなーと思った。

 しばらくの間そのギターを弾きながら歌っていたら、おまちかねのカレーライスとサラダが目の前に並んだ。一口が美味かった。お米はどうしたのかと尋ねたら、こちらのお店で買ったのだそうだ。それにしても久しぶりの日本の味にふれてこの部屋での二度目の感動体験だ。楽しい時間もあっという間に過ぎて帰る時間になった。帰りも地下鉄で南バスターミナルまで送ってくれた。今度は10日にマドリッドから約44Km離れたチンチョンという小さな村に案内してあげようといってくれた。



再びトレドのこと



 マドリッドからトレドまでの真っ直ぐな道路を、今は暗闇の中走っている。何だか一瞬ではあるが自分がトレドの住人になり、マドリッドまで仕事で通っているような気分で、遠くにトレドのあかりが見えたとき自分の故郷に帰ってきたようになつかしく感じた。

 バスを降りると時計は午後11時30分を過ぎようとしていた。それでもバスの乗客はかなりいて、そのめいめいがバスを降りるとそれぞれの方向に散っていった。僕は、帰りに飯島さんが買ってくれた150ml入りのコカコーラのペットボトルを右手に持ち、明るくライトアップされたトレドの街に向かって来た時の道を歩いて帰った。ソコドベール広場まで帰ってくると夜の12時だというのに広場には沢山の人々が飲んだり食べたりする姿があった。

 部屋に帰るとお風呂に入って、たまった下着を洗濯した。日本だときっと今ごろ熱帯夜で寝苦しい毎日だろうなーと思った。こちらは、夜になると乾燥しているせいかそう暑さは感じない。

 10日にトシさんと約束したから、トレドではもう今日9日と11日の2日しか過ごせない。そんな意気込みで9日の朝はホテルを後にした。足は自然にタホ川に向かった。

 タホ川が見下ろせる道路まで歩き、タホ川に沿って、といっても、タホ川の水面までは、急なガケを200メートルばかり下って行かなければたどり着けないのだが、しばらく歩いていると、なんとアスファルトのこの道に沿って、きれいに整備されたわき道が続いているではないか。車で走っていたらきっとわからなかっただろう。このわき道を下ってタホ川の川岸まで歩くことにした。

 日本では、犬を散歩に連れ出すとき、犬のフンをとるためにビニール袋や新聞紙を準備して、人によっては移植ゴテなどを持って散歩にでるが、それにしてもこの道は犬のフンだらけなのだ。その犬のフンを避けながら、10分ばかり下って行くと、やっとタホ川の川岸に着いた。水は思っていたほど美しくはない。まだ、武庫川の方がきれいだ。でも、川の中は見えないが魚はウヨウヨいる気配がする。
 
 今までの経験からすれば、美しい景色は、今みている景色の反対側から見ても美しいものである。このタホ川の岸辺から見る対岸の景色は、全部美しい。明後日は何としてでもこの対岸からトレドを眺めてみようと思いながら、2枚のスケッチを仕上げた。

 タホ川にかかる橋はトレドの東側に三本、西側には二本ある。その内、古くからかかっている橋は東西ともにそれぞれ一本だけで、その両方の橋のどちらもが絵になる。この日は西の橋「サン・マルティン橋」を描いた。しかし、さすがこの日4枚目の絵ともなるとかなり疲れてしまって、描いている途中にウトウトと居眠りする始末となった。これではダメなので、この場所はそこそこに引き揚げることにして川岸をはなれ、もときた道を引き返した。

 昼食をとった後はトレドの東側に移動した。これは、太陽の日差しを避けるためである。タホ川ぞいの道を午前とは反対にしばらく歩くと、この道をはずれて、まるでずっと昔にここに橋が架かっていたかのように張り出した部分があった。幅は2メートルもなく川を見下ろすように10メートルばかり突き出でいて、人一人がやっと座れるような場所である。しかも三方とも急な崖状態で川までの高さは鳴尾東小学校の校舎の屋上までの高さの三倍ほどある。立ち入り禁止の看板はないが胸ぐらいまでの石造りの塀を乗り越えないとそこに行けない。ちょっとスリルがあったが行くことにした。

 この場所は対岸の今はユースホテルになっている古城「サン・セルバンド城」が迫ってくるように建っているのが見える絶好のポイントであった。しばらくスリルのあるスケッチをしたあとホテルに帰った。



チンチョン


 10日の朝はトシさんたちとマドリッドのバスターミナルで待ち合わせだ。ビデオカメラとスケッチブックを用意して、8日の朝のように歩いてバス停まで行き、マドリッド行きのバスに乗った。

 バスがマドリッドに着くと、そこにはすでにトシさん達が来てくれていた。今日行く「チンチョン」はかなり田舎らしく、バスの本数も少ない。一本乗り過ごすと次のバスまでかなり待たないといけなくなるので、なるべく早くバス亭まで行く必要があった。しかし、何とか間に合って「チンチョン」行きのバスに乗ることができた。
 「チンチョン」までは、マドリッドからトレドまでの道のようにオリーブ畑の中を約一時間延々と走る。

 着いた所がこれまたすごい田舎で、びっくり。アスファルトの道路以外は全部土。まるで一か月間ほど雨の降らない僕の田舎と大して変わらない。ただ建物がすべて石と土なので日本の風景よりも重々しい。バスを降りてニセアカシアの並木道を5分ばかり歩くと、とてもきれいな景色の見える場所に出た。ニセアカシアの木陰から見える畑にはロバもつながれている。「ここで一枚スケッチしましょう。」と僕がいった。飯島さんも納得した様子でスケッチの準備にとりかかる。武神さんは僕たちの気が散らないように辺りをブラブラして待っていてくれる。

 持ってきた椅子にすわって5分ばかりペンを運ばせていると、どうも体中がムズがゆい。おまけに、画用紙の上には黒くちっちゃな虫がはいまわっている。手で払ったら、その虫がつぶれて白い画用紙に虫のしみが残った。

 そのとき、チャコさんが僕の背後から叫んだ「うわー背中虫だらけ。」どうやらこの場所のニセアカシアの木だけに、ダニのような虫が巣くっていたらしい。それでも描きかけた絵を完成させないと今度は僕の腹の虫が治まらない。でも、時間とともにイライラがつのるばかりで少しも心地好い気持ちになれない。仕方がないので6割の仕上がりで泣く泣くこの場所を退散した。

 こんな僕に比べると、トシさんの選んだ場所は何ともなかったので、トシさんにはすごく申し訳なかった。

 このチンチョンにも古いお城があった。お城の城壁の周りを三人で歩いた。「トレドでは、至る所にあるこのような無名のお城でも、もし今の日本にあればきっと観光の名所になっているのに。」と思いながらいよいよチンチョンの目抜き通りに向かった。

村の中心には運動場の8分の1ぐらいの広さの広場がある。この広場で闘牛が行われるらしく、何人かの男の人達がその準備に余念がなかった。その内の一人の人にトシさんが何か話しかけていた。どうやらおいしいレストランの場所を聞いたみたいだった。チンチョンは田舎だけれど週末になると食事だけを目的に多くの人が訪れるらしい。

 食事を済ませた僕たちは、午前中にスケッチした場所の反対側にある教会の近くでスケッチをすることにした。ここからはさきほどの広場の周囲にあった木のバルコニーがついた3層の建物が一望できる。このような建物は、スペインでもほかではあまりないらしい。特に緑色に塗った木のバルコニーと白壁のコントラストがすばらしい。

 僕は鉄のアングルで組まれた電柱に身を寄せて、午後の強い日差しをさけながらスケッチした。午前中、虫に攻めたてられた分を取り戻すかのように、むさぼりながらペンを動かした。きっと側で誰かが見ていたら鬼気迫る様子を感じた事だろう。

 いつの間にか、となりにはチャコさんが立っていた。「そろそろ帰りましょうか。バスの時間がせまってきています。」あわてて色をつけ、帰る準備をした。

 バス停まで歩く道すがら、もう二度と来ることはないかも知れないスペインの片田舎チンチョンの路地を自分の脳裏に刻み込んだ。バス停では、まだ少し時間があるようなのでアイスキャンデーを三つ買ってみんなで食べた。このアイスキャンデーも、一つがバカでかい。そして、めっちゃ甘い。一つ食べただけで、やたらとのどが渇いてたまらなかった。でも、そのおかげでこの時の思い出は、今でも鮮明に残っている。

 バスに乗り、マドリッドに帰った時は午後9時頃だった。トレド行きのバスは最終が10時なので、僕たちは、南バスターミナルで軽く夕食をとった。
 


トレドでの最後の日



 翌日、トレドでの最後の一日、日食の日だ。数日前からこの日は、タホ川を東の橋から渡り、タホ川に沿って歩き、西の橋を渡ってトレドまで帰ることに決めていた。おそらく歩くだけで3時間はかかるだろう。でも、途中の景色のことを考えたら、いくらしんどくてもへっちゃらだ。思ったとおり「サン・セルバンド城」から見るトレドの街は、言葉では言い表せない迫力だった。でも我慢して、もうしばらく歩くことにした。

 途中、道路の至る所に車が止まれるスペースが用意してある。日本ではいくら景色がよいところであっても車を止めるスペースを作っている道路は数少ない。たぶんゴミを捨てたり。事故を防ぐためもあるのだろうが、しかし、こんなこと一つとってもスペインの行政のおおらかさに脱帽する。日本の政治家に見習わせたい。今日は日食とあって人々はみんなサングラスをしたり、日食を見るためのメガネを準備して太陽を見ている。僕は何も用意していなかったのでそのへんで見ている若い男性に声をかけて見せてもらった。でも、はっきりとは見えなかった。自分の小学生時代の日食の時のほうがよく見えた。きっとスペインは日差しがきつすぎるのだろうと一人で納得した。

 道もトレドを出てあと半分ほど歩けば反対側の橋に着くという頃、とてもすばらしいながめの場所についた。僕は道をはずれて山側の急斜面を20mばかり登って木陰に腰を下ろしてスケッチした。

 この場所はトレドの全景が見渡せてすばらしい。気が付けば2時間も過ぎていた。ふっと、今スケッチしていた場所に目をやると、とても小さな草が目に付いた。周囲を見ても、同じ草は一本もない。この草だけが、この場にふさわしくない格好で生えている。そっとつまんで根を切らないように引っこ抜き、ビニール袋に入れて持って帰ることにした。(空港の税関で見つかった場合は・・・・と、一瞬思ったが、なんとかなるだろうと考えた。うまく税関をパスしたこの草も、あの日から一年経った今、僕のマンションのベランダで日本での生活を楽しんでいる。今年7月の中頃にいきなり30センチ近く延びた数本の花芽から何とも言えない可憐でかわいい純白の花を咲かせた。その後一斉にしおれて、一時は、命を失ったかに見えたが、数本の株に分かれて今年もなんとか生き延びている。)

 残り半分ほどの道をぶらぶらと歩いていて、ふと道端を見れば日本の道路にもあるような大きな花壇の中に、濃いピンク色に美しく咲いている花を見つけた。たぶんリビングストン・デージーだと思うが、学校の北側のフエンスぞいにさいている花と同じだったのでびっくりした。

 途中でサングラスをかけた27〜8歳くらいの女の人が通り過ぎていくので呼び止めて、自分のもっているビデオカメラを手渡して、自分の姿と、描いた絵を写してもらった。礼をいって時計を見ると、3時をまわっていた。あまりお腹はすいていない。でも、何か食べていないと体の調子が悪くなりそうなので先日入ったレストランに行くことにした。レストランでは「メヌーデルディア!」と言って注文したが、もう定食が食べれる時間は終わっていたらしく、売り切れになっていたので、初めて「パェリア」を注文した。かなり待ってメニュー通りの「パェリヤ」がやってきた。一口食べて、また日本を思い出した。やはり僕には「食べ慣れたご飯が一番向いている。」

 食べ終わると6時頃になっていた。帰りはタホ川ぞいに帰ることにした。今日がトレド最後の一日なので、もう一枚どうしても描いておきたかった。エルグレコの家を過ぎたあたりでかなり気に入った場所があったので椅子に座ってが、幅が一メートルもないような歩道だったので、車道とは反対側の壁にへばり付くようにして描いた。

 この場所は道路がかなりカーブしていて、勢いよく車が突っ込んでくる。そのたびに一瞬ドキッとする。おかげで絵を描きながらウトウトといねむりすることなく描き終えることができた。



スペイン最後の日



 トレドでの楽しい日々が終わって、いよいよスペイン最後の一日が始まった。来た時と同じ荷物を持ち、ホテルのカウンターでお別れの挨拶をして、タクシーでバス乗り場まで走った。

 マドリッドでは、すでにトシさんたちが来ていて、オペラホテルまで同行してくれた。チェックインには少し早かったけれど部屋に入り、荷物を置いて、ビデオカメラを持って三人で街に出た。最初にピカソのゲルニカで有名な国立ソフィア王妃芸術センターを見学した。また、ダリやミロなどの有名な作品も展示してあった。ここを出ると、ひとまず飯島さんたちの家で昼食をとってから次のことを考えようということになった。昼食の後、少し休んでから、ロウ人形館がおもしろそうだったので、連れて行ってもらった。ここはスペインに関係する人々が精巧なロウ人形で作られていてとてもおもしろかった。懐かしい名曲の流れる中、フリオ・イグレシアス、ビートルズ、ルイアームストロングなどを眺めながら、ロウ人形館を後にした。

 マドリッドは、街の一角の小さな公園でも日本のかなり大きな公園の数十倍の広さはゆうにあり、その公園のほとんどに噴水があって勢いよく水を吹き出している。コロン広場近くでは、長い通路の天井からまるで滝のように流れ落ちる水の回廊を歩いた。なんでもスペインでは、Mで始まる街には、きれいな飲み水に不自由しないそうだ。そんな話をしながら、大道芸人が多いというレティーロ公園を散策した。時計も6時をまわって公園の中は、たくさんの人で埋まっていた。道のあちこちで大道芸人達がパフォーマンスを繰り広げている。こんな光景は、日本のどこをさがしてもない。

 しばらくいくと、丁度公園のど真ん中の一番よく目立つ場所で、年の頃30近い一人の男性が、ギターを弾きながら歌っていた。聞いていると、その歌声もさることながら、ギターの腕前もとても半端じゃない。彼をとりまく観衆もこの公園の中では一番多いのではないだろうか。日本でならば、すぐにでも人気者になるのは確実のような気がした。しかし、スペインでは、この手の歌い手はきっと掃いて捨てるほどいるのだろう。それにしても気になったのは、それらの観衆の中に混じって聞いている一人の女性である。どこかの映画女優か何かのような妖艶でいて、初々しいその姿を見たとき、世界の広さを感じてしまった。

 公園を出てぶらぶらと歩く。今夜はトシさんたちの親友であるデアトリスさんと、マッサージ師を目指しているメルセデスさんたちが、夏のバカンスを終えてマドリッドの自宅に帰ってくる。時間が合えば、僕を紹介してくれることになった。大きな道路を地下通路が交差している。その地下通路に入ったとき、突然ギターの音と、歌声が聞こえてきた。見ると、一人の若者が、歌っている。彼の前には、ギターケースが置かれ、そのケースの中には、投げ入れられたと見られるコインや紙幣が入っている。僕はポケットのコインをつかみ彼のギターケースに入れた。一度は通り過ぎたが、スペインでの思い出を作るために、彼の元へ再び戻った。そして、彼のギターを借りて、一曲歌うことにした。もちろんトシさんに通訳してもらい、僕の無理な注文を伝えてもらったのだが、彼は、あっさりと、ギターを僕の手に渡してくれた。ギターはセミアコ、弦はヘビーゲージに近い。嬉しくなって、早速例の歌・・・・長渕のとんぼをがなり立てた。途中幾人かの通行人がいたが、ほとんど無視されてしまった。慣れないことするものじやない。しかし、歌い終わったときに、彼は僕のために地中海地方に伝わるという古い民謡をアレンジした歌を歌ってくれた。聞くところによると、いつもは夜のスナックで歌っているらしい。きっともてるのだろう。

 こんな嬉しいことがあり、ワクワクしながらトシさんたちの後をついていった。時間はすでに8時に近い。しかし、まだまだ夜はやってこない。すると、チャコさんがいきなり電話ボックスに向かって行き、誰かに電話している。どうやら相手はデアトリスのようだ。
かけ終わると、僕たちにむかって、「いつでもいらっしゃいだって。」と甲高く言った。さっそく僕たちは、デアトリスの家に向かった。初めてなのに、何年も前から知っているように僕を迎えてくれた。彼女は大変な親日家で、京都にも来たことがあるそうだ。次は、メルセデスを迎えに彼女の家に行く。どうやら、僕がスペイン最後の日だということで、みんなで送別会を開いてくれることになっているみたい。どこかでそんな話がまとまっていたようだ。

 メルセデスは、かつて学生の時に、年老いた教授の身の回りの世話をしていた。その教授が他界したとき、彼の遺言には遺産を彼の身内でなく彼女に授けると明記してあったそうである。そのために、彼女はマドリッドの一等地にばかでかいマンション(かなり古いが)を手にしたのである。その彼女のマンションに到着して、一通り部屋の中を案内してもらった。話には聞いていたが、何と彼女マンションは、絵になるほどの建物で、歴史を感じさせていた。もちろんその絵は、部屋の壁に飾ってあって、僕は部屋の中を見るよりも先にその絵に見入ってしまった。とっても雰囲気のある僕の大好きな、ターナーばりの水彩画である。

 時計は9時をまわり10時近くになりやっとあたりが暗くなってきた。折しもマドリッドのこの地域では、小さな夏祭りが行われていて、神戸のルミナリエには負けるが、町の至る所にたくさんのネオンサインが明るく輝いている。これもすごくラッキーで、一般のツアーでは決してこのような場面に出くわすことがないそうである。僕たちは、街に繰り出し、祭りでごったがえす通りに夜の食を求め、歩いた。しばらくしてこじんまりしたレストランに入って、大声でしゃべりながら、食事をとった。チャコさんが「今夜さよならするときに、きっとデアトリスが抱きついて頬ずりするから、覚悟しといてよ。スペインの挨拶だから。」と、耳打ちしてくれた。内心どきっとした。

 いよいよ、スペイン最後の宿泊となった。ホテルオペラは、トレドのカルロス5世と比べて、立地条件で大きな差がある。オペラの場合は、道路に面しているせいか、一晩中車の音と、人の罵声や嬌声が聞こえて、ゆっくりと休めない。これも、スペインでの生活に少し慣れたせいかも知れない。到着した夜は、まんじりともできずに朝を迎えたせいか、良く覚えていないが、この夜ばかりは、マドリッドの人っていつ眠るのか不思議なくらいに、うるさい夜であった。トレドのホテルに感謝しなければいけない。翌朝は、少し早めに起きて、トシさんたちを待っていた。なんと、朝迎えに来てくれるとのこと、こんな至れり尽くせりでは、一人旅にならないかも知れない。しかし、考えてみればこのような状況も一人旅のおかげでもある。そうこうしていると、トシさんたちが玄関に来てくれた。忘れ物のチェックをして、チップを置いて外に出た。飛行機は、9時55分なので少なくとも2時間前には、空港に着いた方がゆっくりできるというアドバイスで、ホテルの待ち合わせ時間を7時にした。スペインの朝は夜が遅い分まだほんのりと薄明かりのさす感じである。まだ街灯の灯が残っている。トシさん達はタクシーで来てくれていた。この親切にも感謝した。

 タクシーは、早朝の薄明かりの街を空港に向かう。これで、スペインともお別れだと思うと、寂しい気持ちと、日本に帰るという気持ちが入り交じって、急に日本人旅行者を意識してしまい、自分自身自己嫌悪に陥ってしまった。途中みんなで散策した道を思い出しながら空港に到着した。

 空港に到着してみんなで軽く朝食をとった。コーヒーとクロワッサンを注文した。出てきたクロワッサンの大きいことったら、日本の標準サイズ(?)の倍は大きい。そして値段が安い。ひとしきりクロワッサンの話で盛り上がっていよいよ、出発の時間がやってきた。トシさんたちと最後の別れをして、搭乗手続きをした。内心トレドで採集した草と、木の実を見つけられて、止められるかと思ったが、何ともなかった。

 搭乗者待合い場所でしばらく待っていたが、どうもおかしい。なかなか搭乗の連絡がないのである。そうこうしていると、予定の時間が過ぎてしまった。どうやら一時間ばかり出発が遅れるそうである。急に不安感で一杯になった。フランクフルトの関空行きの便は、13時25分。順調にいって12時25分にはフランクフルトに到着しなければいけない。このままだと到着したときには、すでに飛行機が飛び立った後だ。アウトである・・・。でも、少しぐらいは、待ってくれるだろうと、あんがい気楽にしていた。遅れていた飛行機も、何とか一時間程度の遅れで飛び立った。広大なスペイン上空を2時間ばかり飛び、フランクフルトに到着した。このとき、自分と同じ飛行機で日本に向かう日本人は自分を含めて8人いた。子供二人連れの夫婦。どうも奥さんがスペイン人らしい。もちろん子供はハーフである。そして若い二人連れの女性と中年の女性が一人である。飛行機から降りると何やら航空会社の関係者らしき日本人が近づいてくる。「申し訳ございません。関空行きのジャンボが飛び立ってしまいました。」「えー。」「どうしたらいいの。」私たちは、急に仲良くなってしまった。航空会社の提案は、2つあった。一つは、宿泊費全額負担で、フランクフルトに一泊して翌日帰る。と、数時間待って成田行きの便に乗るである。僕は、迷わず成田行きの便にした。中年の女性だけがフランクフルトで一泊するという。成田からは、伊丹に乗り継ぎの便を用意してくれるとのこと。これは当然である。二人連れの女性は、家が豊中なので伊丹に降りたいとのこと。家族連れも、お盆に間に合わせたいとのことで早く帰る便にした。
 
 待合い場所では、四人家族のご主人と話がはずんだ。なんでも岩手県の出身で、画家を目指して、スペインに行ったらしい。しかし、志半ばにして挫折。空手をやっていたので、画家をやめて空手の道場を作ったらしい。そこで知り合った女性と結婚して、今は服飾関係の会社を経営しているという。僕が絵を趣味でやっていると話すと、それが一番だと相槌をうってくれた。「絵は金銭が絡むと、思った作品ができない。」とも話してくれた。ぼくもまったくその通りだと思う。余程の天才か、若くして地位を築いたのならともかく、趣味の延長で商売絵描きになどなりたくもない。

 そんな話をしていると、ようやく飛行機の搭乗時間がやってきた。こんななアクシデントも、個人旅行のいい思い出だ。何とか成田に到着した下界は、大雨であった。しかし、伊丹に着く頃には天気も回復していた。広大なスペインから日本に帰ってきたが、改めて、日本の狭い国土を認識した。これは、今回の旅行で得た貴重な感覚である。宇宙に出た人達は、自分以上に宇宙から見たちっぽけな地球を感じているのに違いない。
                   完


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